撤退と中間距離の取り方

撤退戦で名を馳せた島左近、あるいは島津義弘の別称で、侍従、維新、参議などがあります。

 

侍従とは己に従う心で、自由主義がスタイルで、それが自然と社会主義に変換されれば良しとなる名前になり、基本的に強い己に従う心を忘れてはいけない名前が侍従になります。

 

私は六法全書を読むとき、偽の自治体など公的機関に侍従を罠として放てます。

 

その侍従のマニュアルを得た偽の自治体や公的機関は、力み過ぎて己の強さが社会主義の立場での強者として君臨したくなり、個人の努力や根性を鍛えることが本来の意味の侍従ではなく、すでに権力の使い方を忘れた雑魚親分になり下がった裸の王に割り当てて封印できます。

 

維新とは、そのような裏腹や利用、エゴで抑える社会性などの隙を見る目。また何がおかしくて矛盾した環境へ堕ちているかを見る目も培うことになり、要するに侍従が努力という言葉で、エゴで抑える社会性ではないことを裏付けしています。

 

そのとき参議とは考えモノで、将軍へ上げられる作戦も隠しの書物、つまりそのまま作戦を事細かく記述したモノなどは届けられず、暗号化などに変換された作戦を、あるいは映像のみを将軍へ上げることで、その将軍は他人に知られずに自分だけの作戦を完璧に作ることができるのが参議になり、それが侍従を飛躍させ、基本独裁を悪い方向じゃなく、良い方向性へ導ける論理にもたどり着きます。

 

この道に到達することで、仏の道の心理の奥にも深入りでき、神と対等の心境で神と向き合う形を己が取り、そして侍従の意味をさらに増幅させることも可能となります。

 

権大納言の名誉がある弾正忠・三郎上総介ですが、本能寺の変では、京都の本能寺へ布陣しました。

 

このとき、京都には十兵衛尉が率いる1万3千の兵しかいませんでした。関東の北条討伐に左近将監。

 

越後の上杉には修理亮。中国攻めは羽柴秀吉。四国遠征のための待機として堺に在中の二羽五郎左衛門長秀の配置を取る信長です。

 

このとき信長は足利義昭を奉じて朝廷へ赴く途中で、つまりそのままの意味で義昭が奉じられることが調停で認可されれば、もはや次の征夷大将軍の地位ということになります。

 

しかし信長の人生は最初の今川義元との戦、日本三大夜戦(川越夜戦、厳島の戦い桶狭間の戦い)のうちの桶狭間の戦いだけが奮起の決戦として完結しています。

 

これは今川が圧倒的に有利で、信長が今川の油断を突いて、背水の陣で正面突撃を起こして、破竹の勢いの破壊神のような戦いを演じたことで勝利した戦いになります。要するに死を覚悟して、しかし勝つにはやるしかない状態で勝利した戦いになります。

 

その後の戦いはほぼすべてが調略戦争を得意として、自軍の兵を減らさずに天下統一の道のりを築いた信長で、浅井長政の裏切り、石山本願寺などの信長包囲網などを退け、また不識庵謙信との戦では権六郎・朱理亮勝家を派兵して、その配下の羽柴秀吉がクーデターを起こしたので謙信に敗北した柴田勝家となり、それらを経過して天下人へ近づきました。

 

その秀吉の裏切りとも取れる行動は信長には脅威となり、裏切りなどが頻発する背景には、基本的に近代と違い無法であることが租としてそれが生じることが窺えて、信長も将来的に社会的な権威の将軍職よりも自由な人間として飛び立ちたいと考えていたと思います。

 

すでに義昭を奉じているので、内定という言葉が当てはまり、そしてその段階で、兵をあのように各地に分散させるのはとても矛盾があります。

 

その矛盾の説明は、関白の秀吉の戦で分かります。

 

秀吉が頼りにするのは五大老前田利家で、前田利家賤ヶ岳の七本槍という異名を持つ大名で、家紋は丸に梅鉢になります。加賀の大名で織田家でも名を馳せていて、兵庫県養父市でも丸に梅鉢の家紋が使われた家は存在します。

 

そしてその五大老前田利家が死亡すると、朝鮮へ出兵してそれに失敗して、秀吉はみるみるうちに精神衰弱のような道をたどり死亡します。

 

その前田利家手取川の戦いの、上杉謙信との戦いでクーデターを起こした秀吉へ恨みを晴らすべき、信長没後に討伐を挑んだ勝家とも対峙しました。このときの秀吉サイドの人間として前田利家七本槍として君臨しました。

 

思えば、利家没後の秀吉は朝鮮出兵でも失敗で、さらには奇妙な死にざまに至り、とても五七桐という家紋の意味のようなお飾りに感じられ、前田利家の木偶の存在だったと推察もできます。

 

つまり信長没後に秀吉ではなく、利家が軍の指揮を執り、まずは北条を豊臣全軍で囲んで降伏させて、次に前田慶次が調略戦争として上杉に入っているので、それを利用して上杉を吸収してしまい、とうとう中国も東北も手中に収めた様子が手に取るように分かります。

 

つまり信長も本能寺の変で、義昭を奉じている以上、まずは将軍職に就き、その後に北条から落とせばいいのですが、それをせずにあの油断とも取れる京都がら空きの布陣を取る当たり、私は逃亡のための布陣だと結論付けを取りました。

 

まずは左近将監、修理亮がそれぞれ関東、越後へ派兵、そして秀吉は中国、五郎左は堺へ在中。そして京都へ光秀だけ残していて、周りに邪魔がいないともいえます。

 

つまり光秀をけしかけてしまい、謀反をけしかけさせてしまう言動、あるいは振舞いを家臣の皆の前で演じます。

 

そして別に本当に光秀が本能寺の変を起こす必要はありません。

 

後は信長が自分で本能寺の床に敷き詰めていた火薬を爆破させてそのまま海外へ逃げればいいのです(松永久秀)。

 

堺には長秀がいるので、光秀自体も追手として迎えません。向かうときは伝令として少数で向かわないと、今度は長秀に配置のことを突かれて謀反扱いになります。

 

つまり境を自由に行き来できるように境に長秀を在中させた信長。そしてそれを利用して逃亡したとなると長秀の存在も納得がいきます。

 

そして当時のその社会的地位の確立がありながらも、これまでの秀吉のクーデター、宗教とは政治の右派や左派のような存在ですが、その右派や左派の石山本願寺の暴徒鎮圧などで、無法の時代の天下人への道の難しを悟った信長は、逃亡して本能寺の変?として名を馳せたのではないかと思わせます。

 

その後、利家は秀吉に付きますが、やはり利家にとって秀吉は自分柴田勝家・歴史別解釈)より年下で、かつ織田家では名を馳せていた秀吉なので、秀吉に付いて天下に近づき、そしてその後は秀吉を自尊心の枠に刷り込ませて、白羽の矢を立てて関白へ導いたように感じます。

 

なにせ、秀吉は農民の出身で、当時は源氏と平氏の血がないと将軍職に就けず、それを見越した利家が秀吉を擁立したと私は思います。あとは自尊心の刷り込みに成功して、五大老として指揮を執ったのではないかと推察もできます。

 

利家もまた信長同党の悪で、しかし信長ほどの侍従が無理な力量、あるいは信長が本能寺の変を遂行したので、真似をするとすぐに読まれるので、この蛇の道を選択したともいえる輩だと感じます。