始まりと一時停止

始まりと一時停止が近づく中、私はもう父は不要だと感じています。

 

なにせあまりにも子供みたいな人なので、どうでもいいのが本音になります。

 

私は西日本豪雨災害で被災しましたが、両親はケガで入院しました。そのとき私は邪魔がいなのでとてもチャンスだと思い、自分のための復興へすぐに取り掛かりました。

 

私一人だとすぐに解決できる自信があり、実際にその通りになり自分の成長を感じることができました。そしてせめて母の回復サポートは父にやらせました。

 

病院等の事務手続き系はすべて私がしたので、父に母の回復サポートはやらせて、私はのんびりと大きく構えていましたが、父はあまり役に立ちませんでした。

 

小学生5年生のときに、部屋で一人で辞書を読んでいて、「内弁慶」という言葉を調べました。

 

内側の人間には強くて、外には弱い人間のことを言います。まさに父の代名詞で、私は子供心にこのような男にだけはなるまいと感じて生きてきました。

 

そのおかげで一人で人生を乗りきる自信が付き、父を見下す能力が身に付きました。

 

可哀そうな父はその内心を理解できずに終わるのでしょう。

 

そのためその父のために私はこれからは自由で楽な人生を生きていき、父にせめてもの懺悔の時間をくれてやろうと考えています。

 

そうしないと仏の世界も元は人の世界。1人1人がお浄土を飾るのではなく、己のお浄土は自分で飾る。それが従来だと気づいてもらうために、つまり死別のときに仏に足を引き込まれないように力を付ける必要性に気づいてもらいたいと考えているからです。それが父へのせめてもの挨拶になります。